『ラッキーはハッピー』


 10年ほど前のことになるが、富士山麓青木ケ原で一匹の犬と出会った。
以来、毎日、晴れの日も雨が降っても、風邪で頭痛のする日も、仲間と遊び歩いていい加減疲れ切っての深夜の帰宅後も、東京では珍しく空が澄んで北斗七星がきれいに見えて、隅田川の夜風が気持ちの良い時も、一緒に散歩している。
 彼女は、首輪と引き綱の嫌いな、金茶色のセッターの特徴を残した雑種の犬で、今夜も道路の端々の匂いを嗅ぎながら、私の先を歩いて、行き過ぎた曲り角をあわてて引き返して来る。
 出会った当座は、痩せて大きなダニを20匹も養っていた粗末な毛艶も、今では資生堂のシャンプーの香りのする立派な毛波。もっとも風呂は何度入れても好きにはならないらしいが、総じて幸せそうだ。
 彼女の名前はラッキーと云う。
 彼女が、僕との出会いをラッキーと思い、ハッピーを感じながら暮らしているかどうか定かではないが(何しろ口の堅い女で、どこで育ったのか、何歳なのか、何も云わない)、僕は結構多くの楽しい時間を、過ごさせてもらっている。
 奴は、何時も機嫌がいい。僕が構ってやらずに放っておいたりした時に、キュンキュン甘ったれた声を出す時や、今日は風呂に入れようと思いながら帰った日に、隠れていてみつかって引き摺り出された時、こっちの気分や都合が悪くって、些細なことで怒っている時以外は、だいだいニコニコ笑っている。困っている時の顔や、ベソかいている時の顔も可愛いと思うが、笑っている顔が安心できて良い。そして、ブラシをかけている時や耳の後ろを掻いてやっている時など、『お前、代われよなッ』って思うほど、幸せそうな顔をする。
 ドライブが好きなくせに、トンネルの通過が怖くて、助手席のシートの下で縮こまったり、夏の突然の雷に驚いて、パニック状態を起こしてベランダのガラス戸越しに必死でノックしたり、夜中の救急車のサイレンに、触発されて、遠吠えを続けてとうとう叱られたり、とにかく、面白くて変な奴だけれど、世話するのが面倒で嫌になってない時は、良い奴です。


 世話することが面倒で嫌になってしまうのは、無理やり都会暮らしを強いている私の都合で、彼女のせいでは全然ない。広い野っ原や林や河原や隣人に迷惑をかけないぐらい距離をおいて立っている一軒家があれば、右側の靴ばっかり狙って遊び壊す奴の癖と、所かまわず掘り返し穴をあけることを、嘆いているぐらいですむ筈です。
 今の人間の価値基準が優先する環境は、犬にとっては、さぞ住みにくいことだろう。


 人と犬の話しをもう少ししたい。
 赤茶けたカラコルム山脈の透き通った紺色の空に上った満月に照らされ、手に入れたばかりの焚火の前で、愛用のヴェラキラプトルの大腿骨を武器にして手に入れた晩餐を食べ散らかし、獣皮を巻きつけたヒゲぼうぼうの俺のおやじと、まだ狼の血を濃く残したままの彼女のパパが共にノミに邪魔されながら寄り添って眠っていた。
 その時期、二人は、最強のタッグチームとして、厳しい環境の中ではあったが大らかに自由に暮らしていた。
 犬と人のそもそもは、じいさんの代に遡り、人なつっこい温和な狼と、迷信深い村人たちの作ったタブーを覚えなかった勉強嫌いな不良少年が出会ったことに始まる。
 古い話しで、どっちが先に声をかけたのか、どちらがどちらを助けたのか、何故異種生物と仲良くするほど寂しかったのかもう忘れられてしまったが、友情が芽生えて一緒に暮らすようになった。
 二人で過ごしていると、嬉しいことや楽なことが多くて、都合のいい関係が保てるようになっていった。
 やがて、パートナーとしての強い絆が生まれた。
 おやじの代には、もう一緒に育った仲で、一緒にいることが自然な状態だった。最初にじいさんと暮らしだした人のいい狼の名前が『ドック』で、以来人間と暮らしている狼の子孫の総称になったかどうか、私は知らない。
 ずっと人と共にいた犬たちの暮らしを考えると、どうも我々人間側の我が侭や都合が、従順な彼らの性格に付け込み、彼らを少なからず不幸にしているようで、気になる。
 服を着せて玩具にしたり、妙なトリミングをしたり、元来彼らの長所であるはずの性質を無視してまで躾をする訓練士、血統書重視のブリーダーの金儲け、踊らされる愛犬家、皆、私は気に入らない。
 それに引き換え、狼族の末裔は実に優しく我慢強い(狼はもっとも優しく母性愛に満ちた動物で、野性の状態で人間の子供や他の動物の子供を育てたりする例は目撃されていて有名です。しかし、ハゲ鷹やガラガラ蛇のそんな話しは聞いたことがありません。)
 彼らの不幸は、14世紀あたりの暇な貴族階級の出現する時代から特に苛酷な現実を強いられる。しかし、大容な彼らは趣味の悪い高慢な人々の悪戯をも許し、チワワやプードルやドーベルマンのように様々の形に変えられ、血を薄められた今でも、人々に変わらぬ友情を示してくれている。


 私はラッキーには出来得る限り、首輪も引き綱もつけないで、暮らしてもらおうと思っている。お手もお座りもしなくて良いから、大昔から受け継いだ自然の優雅さ、大らかさを大切にして欲しいと思っている。私の提供出来るごくわずかなことでは到底不満だろうけれど、のんびり暮らして欲しいし、考えたくもないことだが死ぬまで側にいて欲しいと思っている。


 都会で生まれ育った私は、雑踏のなかで自分を解放し、自由でいられる。
しかし、真っ白な砂丘のサラサラと流れる風紋や、雲のかけらもない底抜けの青空や、満天の星や、銀色に凍てついた月のある風景に憧れ、そんな中に身を置いたとき感じる懐かしい安堵感に、不思議なものを感じることも確かです。
 人には、狼と暮らしていた頃の太古の記憶ってあるのだろうか。
 それとも、俺の先祖の誰かがトランシルバニアの出身者なのだろうか。

 私は、満月の夜に、チリチリと首の後ろの毛が逆立ったり、奥歯や犬歯がかゆいことがたまに有ります。

 あなたは、そんなこと、有りませんか。