『風に吹かれて・旅』
私の旅は、たいてい近隣の人々に遠慮して、大通りまで押し出したオートバイのセルボタンを押してエンジンに火を入れることから始まる。
前日遅くまでチェーンやブレーキの調整をして、タイヤの空気圧を確認し、車載工具やワイヤーやレバーの類いを揃えたり、パンク修理剤や雨具、幸せなことに最近使ったことのない小さな救急箱などをパッキングする。そして、遠足の時の子供のようにウトウトして、目覚時計の鳴る前に目を覚ます。
家族を起こさないように、静かに身支度をすませ、ブーツを履き、いつもより一枚余分に着込むウインドブレーカーと、グラブを突っ込んだヘルメットを持って、玄関のカギを開ける。
遠慮がちに暖機運転をしながらタバコに火を点け、天気を占って空を見上げる。西の空に、沈みかけの月なんか出ていたら、とても良い。
押し殺した排気に震えるマフラーが、白い煙と蒸気に成りきれなかった水滴を吐く。
タイヤやサスや駆動系部分を暖めながら、ゆっくりと首都高速のインターチェンジに向かい、ゲートのおじさんの『おはようございます』の声に左手で挨拶を返してから、徐々にアクセルを開けて行く。
眠そうな長距離便のトラックや、夜遊び帰りのスポーツセダンの間を軽く擦り抜けて行く、夜明け直前の明るい紺色の空に、夜通し働き続けた明りのついた高層ビルたちのシルエットが行き過ぎる。水温計の針が、定位置に上がったことを確認する。
遠くに、ぼおっと山波が見えてくる頃、明けはじめた紫色の空が黄色味を帯び、地平の綾線を朝焼けが染め、天空を青く変えて行く頃には、
都会の日常がキンと張った朝風に洗われ、私は旅人になる。
都会の暮らしの中にも小さな旅は、いくつもある。
ヘルメットを被ってグラブをつけて、走り出してしまえばもう旅なのかもしれない。
横浜や茅ケ崎の友人の所へ出かけて行く時、暇な休日何気なく走る多摩川土手や奥多摩、浅草から巣鴨までの通勤路でさえ、旅なのかもしれない。
毎日毎日同じように走っているけれど、まったく同じ日なんて決してない。日常だと思っている時間の中に、割り込んでくる非日常的な出来ごと、状況、ぼんやり見ていたら見逃してしまうような面白い事に気がついて、追いかけたら明日が変わるようなこと、まだまだ沢山あるように思う。神経をとがらせて大切にしていかないといけない。
ジャンボジェット機に乗って、眠っていて、スチュワーデスに『もう着きましたよ。ハワイですよ』って起こされた、只々時差ボケの中でボーっとしている乗客のようではならない。それでは、面白いことが何も分からない。自分が空を飛んでいたことにも気づかない。
オートバイの旅の素晴らしいのは、京都は、浜松より確実に遠いということ、西へ旅すれば、そのつど多摩川を渡って行かなければならないと云うこと。自分の走った距離、道筋を体感出来ること、季節を感じること。自分の位置を知り、世間の広さを知り、自分自身を実感出来ると云うことです。
ガラス窓で仕切って空調の効いたバスの後部座席で、居眠りしながらの旅も幸福だけれども、目もくらむほどの谷合いの眼下に広がる緑の匂いや、神々を感じてしまうような清流の冷たさを、見逃してしまうかもしれない。私も、暖かいまどろみの中で幸せしていることは大好きだけれども、そんなことを続けていたら腹が立つほど飽き飽きして、結局、後悔することを知っている。
眠り続けるのは、墓石の下に行ってからでいい。そうなったらずっと寝ていろ、起きてくるととても迷惑。 今は、出来るだけ起きていないと勿体ない。
目覚めた感性を、空間的に、時間的に移動させ、自分の視点の高さを変えて世界を見てみるのが、旅だと思っている。
身近に例えれば、ほとんど皆が眠ってしまった午前2時の東京が、表情を変えていることを知る、朝日に追われてまたたく、夜明けの富士山五合目から見る星々を知るのも旅です。
あなたは、日中埃っぽかった横浜B埠頭の夜の静寂の中で聞く、東京湾の波の音を聞いたことが有りますか。
TVから流れる映像や音楽なんかでは決して分からない、何かが有ります。
東京に居ても、アリゾナの砂漠やチベットの岩山、モルジブの海で夕日を見ている時のように、地球の一部と接している自分を、そして、自分自身が流動する宇宙の素子だってことを感じる。
地球って良い、世界ってい良い、生きているって結構いい、素晴らしいって、思いますよ。金額や数字で表わすものの表面など、どうでもよくなる。
私は五感、いいえ、第六感まで含めて、体すべてが感じる情報の中で、永遠ではない命を楽しんでいたい。死んでも良いと思える瞬間を、繰り返し続けていくぐらい、欲張っていたい。
バイクの旅は、孤独で忙しい。
例えば、仲の良い友人とつるんでツーリングに出かけたとしても、『今度は、ここでとまろう』『あそこで、飯にしよう』『給油は、どこだ』『じゃあ、な』一日走って、ほんの五、六言しか話さない。タバコだって吸えない。
バイクのライディングは、右手でアクセルと前輪のブレーキを操作をし、左手でクラッチの断続、右足で後輪のブレーキ、左足でミッションギヤの選択をして、腰を使っての体重移動でコーナーリングして行く。体中の感覚をセンサーにして、車をドライビングしている人の3倍も視点移動して、今を走っている体、3秒先を予測し続ける頭脳、風景を楽しむ心の余裕を、いっぺんにこなす。自分のことで、手一杯になってしまう。
前を走っている、たとえ愛する人に起こった危険にも手は貸せない。ましてや直近であろうと後ろを走っていたら、すぐには気がつきもしない。
それぞれに自分自身の才覚で、切り抜けて行かねばならない。
それぞれに一個の心臓を持ち、それぞれに息をして、人生を切り抜けて行く人間たちの生き様を、はっきり思い知らされることがしばしばあるのもバイクの旅です。
一人で生きて行くと云うことがはっきり分かってしまったライダーは、とても寂しがり屋で、友だち思いの良い奴になることが多い。一人で痛い思いをして我慢し抜いて、また走り始めた男など特にその傾向が強い。
箱根でコケた友人の単車を一日潰してトラックで引き取りに行く奴等、マシンの破損部品の調達を皆でして、よってたかって、再生してしまう仲間たち。私自身の有難かった思い出も、一つや二つではない。
旅先で出会って、行き来するようになった友人も数多くいる。
追い抜いて『荷物、解けそうですよ』とゼスチュァーで知らせる。峠のワインディングロードの見晴らしの良いモータープールで、『こんにちは、良いバイク乗ってますね』『懐かしいですね』『きれいにしてますね』『ニューモデルですか』『ほんと、寒いですね』『どこから来られたんですか』。
会ったこともない他人と、話しが始まる。
今の世の中では珍しくなった光景が、孤独を知っている単車乗りたちの間にはまだある。
『気をつけて』。互にホーンを鳴らして、別れ行く名前も知らないライダーに友情を感じたりする。旅を続けて、走り続けることで、バイク小僧も段々ライダーに育っていく、バイクが見せ、感じさせてくれるものを素直に吸収したら、きっとそうなる。
私は、ワインディングロードが好きです。
どこまでも続く直線路も良いけど、日本では北海道ぐらいにしかなく、テキサスのそれには遠く及ばない。山々と複雑な海岸線に囲まれた日本には、走って楽しいワインディングロードが沢山ある。適度にうねったカーブの続く日本の道路は、飽きないで走り続けられる最高の道、まだまだ林道も残っている。交通情報も充実し、舗装道路のメンテナンスなど世界一級と評して良い。
片側が連らなる緑と切り立った岩肌、一方は、打ち寄せる波のしぶき、くねって続くアスファルト道路なんてロケーションはもう、最高。
尻が勝手に滑り出し、右手がメリハリの利いた爆音を奏で始める。思い通りのラインでコーナーを抜けた時、エクスタシーをも感じそうだ。
アウトインアウト、アウトインアウト、2つ先のカーブを絶えず意識し、ブラインドとクリアーなコーナーを走り分けて行く。
ツイスティーな道路をリズミカルに走っていると、『まずい、まずいなぁ〜』と、思いながらついついスピードが上がってしまう。私の病気らしい。
コーナーの出口でアクセルを開ける。
次の直線路でフロントフォークが伸び、前輪が浮くほど加速させ、後ろへすっ飛んで行く景色の中で、ライン取りと安全確認を瞬時に済ます。
飛び込むコーナーに合わせて右手を握り込んでブレーキングし、手前で減速、同時にシフトダウン。前輪の加重が増え、つんのめるようにフロントが沈むのをリアブレーキを使って押さえる。タンクをグリップしている膝とステップの踵に力を入れ、乗車姿勢の乱れを止める。イン側のステップに力を入れ、尻を落とす。そのきっかけで旋回し始めたマシンを、外足加重で安定させながら、スロットルはパシャル、クリッピングポイントの通過を待つ。世界全部がバランスで出来ていることを知る瞬間である。出口に的を絞って、再びアクセルを開ける。目線はあくまでも見えている一番遠く。
マシンの震動と、タイヤのアスファルトを蹴る感じを確かめながら、グリップの限界を探る。パワースライドを起こして大地に逃げる駆動力をアクセルワークで制御し、ハンドルでラインを修正する。膝のバンクセンサーが、路面を滑る。
マシンが俺の体の延長になる。
こんなことをしていたら、いつか死ぬな。一回きりの話しだけど……人は何時か死ぬ、気分よく飛び越したいものだ。
俺の遊びは続く。
飯は港町の、土地の漁師が出入りするような小汚い飯屋がいい。
魚と、お新香と、みそ汁と、垂らした醤油が泡になって弾け、焦げている焼いた帆立貝の匂いがいい。ぶっちょうづらの太ったおばさんなんかが、無愛想に出してくれたら、なおいい。東京都心の気取った店で、都会ヅラした田舎の坊やの浮っついたお愛想で持ってくる、オーストラリアの牛肉のステーキや、イタリアでは決してお目にかかれないイタメシより、ずっといい。
旨いものは旨い。体裁や雰囲気に惑わされない、味覚でいたい。
良いものを、素直に良いと思える、感覚でいたい。
ベタベタと飾らない、素の味が少なくなった。本物になり得る素材と巡り会った時、人の感受性や創造力は刺激され、新たな活動を始める。より大きな感動に広がっていく。
意識は正確な知識によって、より強力なエネルギーを持つ。
データとしての知識は何も生むことが出来ず、一人よがりな意識は、不毛の地で迷い自分自身を葬る。膨大な資料の海でデータのセレクトとインプットのみに終始し、他のことに手の回らなくなってしまったマス教育としての制度は、知識は与えても、個性という名のもとに、個人に意識の開発を押しつけてしまった。そのことを意識している個人は少ない。
実体験は何よりも鮮やかな知識を植え付ける。そして、個人の経験からのみ得る知識の少なさ、時間的余裕のなさにも気づく。
もっと遠くへ、もっと沢山の旅をして、経験を増やし、沢山の人の話しや著書、映像から多くのものを学ぶ必要がある。
『地理や、英語や、何か色々、勉強しときゃ良かった。学校にいるうちに』
凡夫は、反省や後悔でしか物の理解が出来ずだいたい手遅れである。
『帰ったら、娘の本、借りようかな』『トシオに貰ったイミダス読むかァ』。
心がけぬよりは、ましであろう。
帰路のある旅は良い。
普段と違う景色の中を充分に走り回った一日は短い。傾いた陽射しが、バックミラーのメッキ部分に小さく映り、路面で長くなったマシンの影のホイールが静かに回り、視界の中でチラチラする。風景の良い路肩でマシンを止め、サイドスタンドに預けて傾ける。ヘルメットを外しミラーに被せる。張り付いた髪の毛に指を通し空気を入れ、潰れたヘアスタイルを整える。ジャケットのジッパーを少し下げて、風に煽られるライターの短い炎を守ってタバコに火をつける。
見まわせば、夕暮の峠は行き交う車も少なく、茜に染り落ち着いた風情、生涯で、そんなに多くは出会わない気持ち良い時間です。
傾いた夕日は少し寂しげで、里心が出る。
そろそろ帰るか。
惜しむ気持ちを振り切る派手なアクセルターンで方向を変えたマシンで、来た道とは違うルートで東京を目指す。温度を下げた大気がヘルメットのシールドの隅で風鳴りし、山波に沈もうとする夕日がまだ青い空に浮かんだ雲の下辺を紅にして、頂上の白までを光のグラデーションで塗り分け、そして、ゆっくりと形を変えながら、一日の終わりを飾るレビューのフィナーレを見せながら暮れてゆく。山影の草木は枝葉を下げ眠りにつく準備をはじめ、路肩の石ころでさえ、寝心地のいい、ポジションをとっている。
薄暮れのロードでアクセルに鞭を入れながら、前照燈のスイッチをONにする。
幹線の高速道路は、結構なスピードで飛ばして行くクルマたちのライトで、もう光の河になっている。クルマの群れの中を走りながら、中でも飛ばしているクルマを捜し、べったり食らいついて行く。車速を落とされたり走行車線に逃げ込まれたら、また新しい獲物を捜す。後方にも注意し、交通機動隊の車両に追われたり、ましてや追い越したりしないよう、気をつける。前面にナンバーをつけていないバイクは、オービスを恐れることはないが、クルマのドライブの時の癖が出て、周りと一緒にスピードダウンしてしまう。
追い越し車線をトロトロ走っているクルマには、パッシングで車線変更を催促するが、それでもなかなか退かない馬鹿者は、仕方なく左側から追い抜く。
追い抜きは、バイクのパワーウエイトレシオの利点を活かし、一気に鮮やかに行う。
遠くにネオンと高層ビルが見えてくると、何時もながらホッとする。
高速出口の混雑した車の列を横目に、どんどん前に出る。
今日はバイクで出てきて良かったと思いながら、エンジンをかけたままバイクを止め、歩いてゲートに向かい清算を済ます。
暖かい喧騒に包まれた首都高の短い間隔のつなぎ目が、タイヤを突き上げてくるゴトンゴトンとゆうリズムが、なつかしく、「いい旅をしてきたね。」と、優しい。
テリトリーに戻った安堵感は良い。
私にとって、ここも極めて自然な場所。アスファルトや、鉄骨や、ガラスの街がとても大切で、先を急ぎ、鼻面を突っ込み合っている邪魔なクルマたちも仲間、明日からまた、仲良くやろう。