風の行者                              
                       カミナリ族のクソ餓鬼でも時間をかけたら、好日の仙人になれるかな。

人は、それぞれに気持ちの良い、自分の山に登れば良い。
しかし、居心地の悪い他人の山の征服を狙う馬鹿者も多いものだ。そんな事をしていると何でも苦労と感じてしまって休まる時がない。 だから、楽することが楽しみの一部でしかないことにも気がつかない。
 自分の山には、喜びや安らぎ、我慢、苦労、悲しみ、気概といった、拾い尽くせないほどの心のかけらが絶妙なバランスで散らばっていて、飽きることがない、たくましい自分の歩調を感じながら気分良く登って行けるはずだ。
 気持ちの良い人生を送らせてくれる自分の山への道程は、自分の目で見えるもの、自分の耳で聞こえるものを信じて、他人をフィルターにした情報に惑わされることなく自分の心の声を素直に聞けば、すぐにも見えてくるだろう。
 自分の脳根から聞こえる声は、とても小さいけれど、とてもしっかりとした物を要求している筈です。


 子供の頃、爺はおやじに見え、大人はおとなに見えた。
子供は、いつか大人に成ると信じていた。  錯覚であった。
相対論としての区別はあっても、毛虫が蝶に成るように、確かなメタモルフォーゼは、40才を越えた今でも起こりそうにない。
 肩凝りや脱毛に悩まされる年になって、肉体が大切な自分の財産であることに気がつき、人生の長さを思い知らされ、気合いを入れ直すこの頃になっても、頭の中は『ガキ』のままの自分に、戸惑っている。
 自分の子供が生まれ、何とか育て続けて大学に入るまでになった今でも、新しい問題や苦手な問題が起きてきて、何時も、そのつど一々困り、悩み、最良ではない答えを出しては赤点を取り続けている。
 考えてみると、きっと私の父親も同じで、私が幼稚園児の時には、子供をやっと幼稚園に入れた若い新米の父親で、一々苦労していたのだろう。
 なんか、可愛くって、嬉しいね。

 一日は、多くの繰り返して起こったことと、初めて体験することで、出来ている。初めての経験も重なってキャリアになってしまう、其れらとの出会いも年取るごとに段々減ってしまう。
これでは、段々退屈になってしまってかなわない。
 どうしても、生活のキャパシティーを広げたり、ステップアップすることが必要に成る。完成度を上げる闘いを極めるとなれば、半端な私の才能では一生の三○○○倍もの時間が必要だから、80年や90年は、飽きずに楽しく暮らせるだろう。
 私には、何気なく通り過ぎる峠の風景や、風、出会う人々、毎日使うオートバイのエンジンの音、オイルの匂い、フレームのきしみ、タイヤの減り具合といった事からさえ、感動や疑問、そして幸せを感じる能力がもっともっといる。
苦労や悲しみ、痛みですら楽しみのスパイスにしてしまう心の練金術も、もっといる。
 人の一生の4分の3は肉体の崩壊の歴史で悲しいが、失われゆく肉体を惜しみ、苦しみもがくことが、新しい人との出会いや知識の吸収への渇望を生み、人間の不思議さを感じさせてくれる。
まぁ、突き詰めれば死後への疑問にまで繋がってしまうが、これについては分からないことが沢山あるものの、自分で行ってみればすぐ分かることなので、後回しにしたいと思う。
 気楽に考えれば、今の世界に生きている人たちよりも、すでに死んでしまった者たちのほうが遥かに多いのだから、知り合いの増える可能性が増えて楽しいくらいだ。
 亡くして悲しかった身内、知人、道具、ペットたちが皆待っていて迎えてくれる筈だ。会いたくない奴も二、三居るけれど、今の渡世も同じだから仕方がない。
そんなことより、未練たらたらで、絶対無くしたくない人生を作る方が優先課題だ。


 勉強や努力はからっきしの私でも、いっぱい遊べと云うのなら、結構、自信を持って出来ると思う。
 大いに遊び、出来得る限り行きたい所へ行って、やりたいことやって、人生そのものを楽しむ。 今日の課題もこれだけだな。
 仕事も楽しみの一つ、こだわれば、これが結構面白い。
日々の糧を必要とする肉体の維持は、余程恵まれた環境で生活でもしない限り金銭を必要とする。ましてや都会での文化的サービスを望んだり個人的な贅沢までしたくなったら尚さらである。昔、『金のないのは顔がないのと同じだよ』と、お袋に云われた。顔が無ければ、不便で何も出来ないし、みっともないし、かなり寂しい。 阿修羅や十一面観音のように沢山はいらないが、良い顔で笑える自分らしい気に入ったものが、私にも一つ要る。
 そして又、辛い時苦しい時にこそ笑っている男気には、金銭的な下支えが根性以上に必要な時がある事も心得ている。
『そろばんの立つことやりなさいよ』とも、云われた。
 無理のある行動は何時か破綻して、悔しい思いを残すだろう。
経済的に成り立たない事には遊びも出来ないし、将来も心配だ。
憂鬱に時間を費やすなど愚の骨頂、心配ごとで遊び心を無くしてしまうなんて事は私のモラルに反する。
 80年かそこいら、未来に向かって移動する肉体と云うタイムマシンに乗っている人間は、その許された期間、各自の可能な範囲どこへでも出かけ、見聞きし可能な限りやりたいことを成せるはずです。自分と云うマシーンの維持管理やチーンナップには金もかかるし、行動するのには初期投資やそのランニングコストも必要だろう。又安全に走り続ける為には先を予想して将来的な危惧に対する蓄財もいるだろう。各自に見合った金を作る能力は無ければまずい。
幸いなことに世間には、生きる為に手に入れる事の出来るパンがあり、そして、私には私を活かすための手足が有る。息をし瞬きするくらいに仕事や稼ぎなんて出来て当たり前、其れくらいに思い込んで居て丁度いい。
九分九厘、希望は叶った様なものだと思って仕舞った方が良い。
あとは行きたいほうにハンドルを切ってアクセル ONだ。

 自分の人生を充分にのびのびと豊に終えるために、見えるものを見落とさずに、そして一カ所だけに不必要な固執をしないバランス感覚が是非ともほしいものだと思う。
 見渡すと金だけ貯めて貧しい人間になった奴や、道楽が過ぎて立ち行かない人、能力不足あるいは能力の開発不足で固まって動けない人者、感性や知識に振り回されて空回りしている愚か者、色々居るのが結構見えて面白い。
 人間は、ものの善し悪しや塩梅を極めるにはまだまだ時間がかかりそうだが、ゆるゆる向かって行くしかない。
 今の時点で言えるのは、まあ、
 私には複雑な心配事を悩み続ける情熱も才能も時間もないので、日々の「しのぎ」はさっさと片付ける事にした方が良さそうだ。
 もし神様がいるとしたら、私に与えた時間の長さは絶妙なタイミングで、楽しく、飽きずに、少し未練で、大いに満足する時間だろう。
 未だ何の使命感も持たず、仕上げる筈の仕事も持たない私は、残りの時間も精神の餓鬼を放し飼いにして日々を楽しみ、とっても面白い自分の人生を大いに満足するために、どんどん新しいことをみつけ、こだわり、自分の周りの人々をたくさん巻き込みながら、すべてのことで遊んで、自分の心にサービスし続ける、リッパな『ガキ』のベテランに成ろうと思っている。

 そして又、この有意義な時間をプレゼントしてくれた両親により沢山感謝して、目一杯、楽しい人生をおくる事が、私に出来る最高の親孝行だとも思っている。

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注・カミナリ族
オートバイ乗りの少年が暴走族と呼ばれる様に成るより遥か以前の呼び名です。
昭和20〜30年代に成ると少年達も単車に乗れる時代に成り、数多くのバイクフリークの団体も発生した。こぞってスピードアップを狙った彼等の中に腹下直管の全く消音装置を持たない改造車に乗る者も出て来て、大音量で疾走していた。形状としてはカワサキの改造車等によく見られるヨシムラ管に名残がある。
彼等は又、オトキチ等とも呼ばれていた。
 ほのぼのとした時代で、路肩でマフラーをいじっている少年に、「うるさく走るんじゃねェぞ」と巡査が声をかけて通るくらいのもので違法改造の取り締まりはまだ無かった。
40〜50年代にサーキット族・ローリング族等と呼ばれ警察との抗争事件も数件起きて、オートバイの3無い運動に発展、以降マスコミ的には全て暴走族と呼ばれる様になった。